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とある看護師の記録


一九九九年四月、神奈川県警は一人の少女を保護した。彼女は当初非常に衰弱しており、すぐに病院へと搬送された。三日後、身体的な安定は取り戻したものの、彼女の精神は錯乱していた。幻覚が見えていたのだろう、彼女は病院のベッドで一人黙々と、時に狂乱を交えながらも、その境遇を語り始めた。カーテン越しに、偶然その話を聞いていた看護師の私は、あまりの猟奇さに吐き気を覚えながらも、その一部始終を記憶していた。

その夜、私は偶然にも佐藤広美の病室に居合わせていた。患者同士を隔てるカーテンのせいで、佐藤広美の表情は分からなかったが、その声は克明に記憶している。他に患者がいなかったのが幸いか、私しかそこにいなかったのが不幸だったのか。

彼女は誰かと会話していた。その通り、その場には無言の私しかいなかったというのに。一人で十数人に成りきっていたのか、あるいは本当にそうだったのか、私に知る術はない。

「二人目はひろちゃん」

その言葉を境に、彼女の語り口調は変わった。それまでと違い、会話の相手がはっきりした輪郭を得たのだ。もし佐藤広美の主治医がここにいたならば、きっと力づくで彼女を止めたであろう。なぜなら、それは異常事態と呼ぶ他なかったからだ。

けれども私はそれをしなかった。彼女の心が磨り減って、僅かの刺激で崩れてしまうことを知っていたからである。

「ねぇ、お母さん?」

「何?」

「お金、ちょうだい」

「何で?」

「今度ね、きぃちゃんとまさと買い物行くのよ。新しい服、欲しいし」

「新しい服? この前買ったばっかりでしょ?」

「どんどん新しいのは出るのよ。遅れちゃうよ」

「遅れちゃうって、そんな合わせてたらキリがないでしょう」

「お母さんだって、この前新しいバッグ買ってたでしょ」

「う。仕方ないわねぇ。その代わり、お小遣いの前借りね! 来月のお小遣いもうないわよ」

「へーい」

 

平凡で、何の変哲もない会話であった。

ここまでで、彼女は十分ほど沈黙した。私は息を呑み、その十分間を無言で過ごした。無言でいたというより、そうすることしか出来なかったのだ。私自身の心を落ち着かせるために時間を使ったということだ。

妖しい月明かりだけが差し込む病室。僅かに開いた窓からは、熱帯夜の生暖かい風がまとわりついてくる。そんな部屋の中での時間も、私は一瞬に感じられた。カーテンに投影されたおぼろげな影が、彷徨うように揺らめいた。

 

「三人目はヒロ」

おもむろに、彼女は言葉を発した。予想外の不意打ちに驚きながらも、彼女へ耳を傾ける。

「おいヒロ、聞いてんのか」

「わ、きぃちゃん。びっくりした」

「その手にとってるワンピース、十万以上するやつだろ。買えないじゃん。そういうの、とらぬ狸の何とやらってやつだぞ」

「皮算用! っていうか、か、買えるもん」

「嘘つけ。あんたこの前小遣いの少なさを嘆いてたろうが」

「う……。下ろせば、口座から下ろせば」

「やめろって。それに、前も、確かその前も同じこと言ってたぞ。今日だって、小遣い前借りして来たんだろ?」

「な、何で知ってんの?」

「あんたねぇ。何年付き合ってると思ってんの。今日はまさがどうしってもって言うから誘ったんだ」

「どれにしようかな〜♪」

「ほれ見ろ。あいつの家は親がちょっとおかしいから」

「おかしいって……きぃちゃんっ」

「いや、あたしらと二ケタは違うんだぞ。おかしいんだ」

「あはは……ホントだ」

「そ。だから、ヒロ、あんたも見得張ろうとなんかしなくていいんだ」

「みっ、見得張ろうとなんて……」

「何度も言わせんなって。お見通しなんだよ。こっちは」

「きぃちゃぁんっ!」

「何だよ、うっとうしい。代わりに見てろ。今日こそまさに三段アイスを奢らせてやる」

「悪だね、きぃちゃん」

 

私は灰色のベッドに、思い出を映写した。病室はいつの間にか、セピア色の高校時代。古ぼけた写真を眺めるように、自然と笑みが溢れてくる。日焼けした紙の匂いがどこからか流れてくるように思える。

女三人寄ればかしまし、なんてことわざがあるが、実のところ何人だろうが、この年頃の女はやかましい。例に漏れず私もそうだったし、佐藤広美の声は大きく、楽しげだった。

ふと回想を始めてしまう。あの頃はまだ、何も知らないのに全てを知っていたような気分で、世間に突っ張ったりしながら、友人同士何も考えずに生きていた。言ってしまえば純粋、悪く言えば無知、そんな私がいた。

 

「四人目は佐藤」

またも私の意識の外から、言葉の矢を放つ。その声に、思い出の泡は弾き割られた。

「佐藤、どうしたお前」

「はい、何ですか、先生?」

「何ですかってお前な。この英語の点数は何だ。赤点じゃないか。他の教科の得点は悪くないんだ。勉強すれば出来るだろ、という話だ。聞いていなかったのか?」

「そんなことありませんよ。ちゃんと聞いてましたよ。その上で何ですか、って聞いてるんです」

「お、お前な、佐藤……!」

「だから、何ですかって言ってるじゃありませんか」

「お前、教師に向かってその口の聞き方は何だ」

「用がないんでしたら、私帰ります。失礼します」

 

佐藤広美が三度の沈黙に入ったのとほぼ同時に、私は頬が赤くなるのを感じた。理由は明らかで、私がまたも自分の過去を思い出したからだ。高校時代は、先生というものが何か巨大な組織の一員のように思えて、反抗せずにはいられなかった。先生に反抗する事が一種のステータスになり、そのことが正義なんだと、思い返せば恥ずかしいという他ない勘違いをしていた。

 反抗と言ってもそれは些細なものであって、そっけない態度をとってみたりだとか、校則を少し破ってみたりだとか、その程度のものだ。その程度しか、高校生には出来ない。

 佐藤広美も例外なく、世間一般の高校生だったということだ。

 三回目になると、さすがにこの沈黙の扱いにも慣れてきた。この沈黙は恐らく、彼女にとっての場面転換の時間なのだ。脳に点在している記憶を拾い集め、台本を書くための時間。

 

「五人目は佐藤先輩」

 彼女は再び語り始めた。

「ちょっと、全然出来てないじゃない」

「は、はい……佐藤先輩……」

「しっかりしてよね。私たちはもうすぐ引退しちゃうのよ? 引退したらあなたたちがこの部を引っ張っていかなきゃいけないの。あなたがこんなじゃ、後輩にしめしがつかないし、先輩たちが積み上げてきたものをないがしろにすることになるわ」

「はい」

「あなたたちも、二年生が私だけで大変だとは思うけど……期待してるのよ……って、聞いてないじゃん。ま、練習してるなら、いっか」

 

何かは分からないが、部活動の様子だろう。私はこの一人語りを聞いているだけで、彼女の苦労が身に染みた。何か活動をすると言うのは、一人ではとても出来るものではないのだ。そこにいる者皆が一丸とならなくてはならない。だからと言って上下関係が完全になく、誰も指導するものがいなければ、そこで組織は崩壊の一途を辿る。その按配が難しい。

 私もまた、その苦悩を経験したことがあるのだ。彼女は厳しくする方に傾いた。今まで聞いていた彼女は《甘えん坊》で、《見栄っ張り》という言葉がふさわしい。そのどちらでもない、責任というドレスをまとった彼女が《佐藤先輩》なのか。

 

「私は、多重人格です。あなたの前の私は、本当の私ではないんです。全部、私が本当の私を隠した末に生まれた私なんです」

 佐藤広美の口調が変質する。ただ変わるのとはまた異なった、質の変化。落ち着きのある少女の声は、月明かりに霞み、溶けていった。

 明確に《誰か》に語りかける、相手のいない独白。

 彼女が何を言いたいのか、何となく、私は察することが出来た。しかし分かった末の結論は、少女が何か特別ということでなく、むしろ彼女が普通であるということを際立たせるものであった。ただ、そこにこそ、少女の苦悩が集約していたこともまた同時に、理解することが出来た。

私自身、思春期の複雑な心境に、もう幾度も触れてきた。

 月は雲に隠れて、病室はより一層暗くなった。生暖かい中に吹いて来た一筋の冷たい風は、思わず私を身震いさせた。

 

「六人目はサトウ」

 彼女の言葉が、言わば三人目までの佐藤広美と違う全く異質の意味合いを孕んでいることはすぐに理解出来た。今度の彼女の言葉は、サトウという自分の名前に憎しみすら込められているような気がしたのだ。

「サトウさあ、うざくない?」

「え……あ、うん!」

「あいつさ、私たちと一年も違うのにさ、うまいの少しだろ? なのに一丁前に先輩面してさ。自分は後輩の指導ばっかりで全然練習してないしさ」

「そ……そうだよね」

「あーまじ、早く卒業してくんないかな。あ、事故とかにあっても、それはそれでいいけど」

 

 どんな状況なのか、容易に想像がついた。

 佐藤広美が、どこかで後輩たちの会話を聞いてしまったのだろう。自分なりに頑張っていたはずの彼女からしたら、こんなに辛いことはない。

 彼女の定義からしたら、この後輩の一人も多重人格のはずだ。だがそんなことに、当事者が気付けるはずもない。このようなすれ違いは、決して珍しくはないことだ。だがそのすれ違いに気付いたときほど、積み上げてきた何かが崩れることはない。その柱がより高く、より精密であれば、崩れる瞬間は壮大なのだ。

 佐藤広美の声は震えていた。何がそうさせたのか、私には分からない。怒り、憎しみ、悲しみ、辛さ、失望、絶望……。負を言葉にしようとした私の頭に次々と言葉が浮かんでは、消えた。

 

「七人目は佐藤さん」

 今までと変わらないトーンの声でも、その背景には彼女の激情があるのだろう。私は呼吸すら忘れるほど彼女に自分を映し出し、その話に耳を傾けた。

「あれ? 佐藤さん?」

「ホントだぁ。何で、一人で公園にいるなんてぇ、何かリストラされたサラリーマンみたいじゃん」

「珍しいじゃん。どうしたの?」

「…………」

「ちょっとぉ、無視しないでよねぇ」

「仕方ないんじゃない? 佐藤さん優等生みたいだし。あたしらみたいなギャル系には慣れてないんでしょ」

「そ、そういうわけじゃ……。ちょっとヤな事があっただけだから……、少し一人でいさせて」

「んー。あたしらも、佐藤さんのクラスメイトなんだけど。何? 愚痴があるなら何でも聞くよ? 抱え込んでちゃ辛いでしょ。明日からまた別世界のあたしらだと思えば、話しやすいでしょ?」

「…………うん、ありがと」

 

 それは残酷で、優しい出来事。学校ですれ違っても、明日からは話さない。その了解が、佐藤広美の心を開かせたのだろう。割愛するが、彼女は自らの心の内を語っていた。段々彼女の声はかすれて、泣いているように聞こえた。

 電話相談や、チャット相談が流行るように。翌日に顔を合わせない、つまり二度と会わないからこそ本音を出せる。言ってしまえば、使い捨てのインスタントな人間関係。形は違っても、彼女はまさにこれに依存したのだ。

 使い捨ての人間関係は、優しい。お互いに、気を遣わなくて済むから。誰も、嘘をつかなくていいから。自分が、許されるから。だから、優しい。私も同じように、顔も知らない誰かへ自分の悩みを吐き出した事があるからこそ、共感した。そうなると、もう彼女と私の違いはほとんどなくなっていた。

 

「八人目はヒロミ」

 心なしか、彼女の言葉遣いがさらに変わっていた。語尾を少し伸ばし、声自体も明るくなった。明かりのない病室で、ひどく異質だった。

「マジびっくりだよね。まさかヒロミがあたしらのグループに入るなんてぇ」

「え……そう?」

「そらそうだ。あんた、いかにも優等生って雰囲気かもし出してたしさ」

「部活もやめちゃったんでしょぉ?」

「うん。何か、もうイヤになっちゃったし、みんなと遊ぶ時間減っちゃうし」

「友達甲斐のあるヤツだなぁ、ヒロミはさ」

「で、今日どこ行くぅ?」

「はは、あたし今日、いいバイト持ってきたんだ」

「バイト? うち、禁止されてるから……」

「違う違う、ヒロミ。そんな堅苦しいものじゃないよ。履歴書とかそういうのは何にもいらないヤツ。あんたたち、そろそろサイフやばいんじゃないの?」

「キャハハ、何で知ってんのぉ?」

「私はいっつもやばいかも……」

「でしょでしょ? じゃあさ、バイトしよう、バイト」

 

 当然の流れといえば、確かに当然だった。向き合って本音を出し合えば、お互いの距離は一気に縮まる。対面で話すのとネットを通して話すのとでは、そもそも同じなはずがないのだから。

 彼女はこの話があった時、彼女たちを親友と思ったことだろう。それが間違っていたのか、それともその通りなのか、私に判断することは出来なかった。

 

「九人目は広美」

彼女の声が、影を帯びる。白いベッドに伸びる影に、溶け込んでしまいそうな気分になった。

「…………広美」

「あ、きぃちゃん……久し振り」

「久し振りって、あんた……、心配してるんだよ、まさも、あたしも! それにあんたのお母さんだって心配して、あたしに電話かけてきたんだぞ。聞いたら、ロクに家に帰ってないらしいじゃないか!」

「心配って、何で?」

「何でって、広美……。あたしたちと話さなくなったと思ったら、急に部活やめるし。それに、あいつらのグループと仲良くしてるし……!」

「あ、そうそうきぃちゃん、いいアルバイトがあるんだ」

「広美!」

「あのね、おじさんと仲良く食事したり、映画観たりすると、奢って貰える上にお金を貰えるんだよ」

「広美!」

「それにね、一緒に寝るだけで、十倍くらいのお金貰えるんだよ?」

「ヒロ……」

「いつかさ、私、十万円くらいのワンピース、買えなかったことあったよね? 今なら買えるよ。三段アイスも、四段だっていけるよ。あはっ、まさといい勝負じゃない?」

「まさはさ、もうあんたと話さないってさ。あいつらのグループ、そんな好きじゃないみたいだ。そりゃ……あたしは違うって言ったら嘘になるよ。でもさ!」

「じゃあ、きぃちゃんも私と話さなきゃいいんじゃん。私、もうみんなと友達――親友なんだし」

「ヒロ、あんた泣いてんだろ?」

「何言ってんの、泣いてないよ?」

「あたしは知ってんだよ。何年付き合ってると思ってんの?」

「嘘だよ。だって私、一人じゃないもん。私を全員知ってるなんて、そんなの嘘だよ。そんなはずないもん。本当の私を、知ってる?」

「……そっか。分かったよ。広美、あたしも、もうあんたとは口利かないから」

「好きにしてよ、きぃちゃん……」

「じゃあな。死ぬなよ。まさもあたしも、死んでも葬式にゃ行かないからさ」

 

女子のグループ社会の掟は、絶対だ。ただ、二人の確執はそれ以上にもっと大きな理由がある。そのことは、明らかだった。出会いと別れが共存しているせいで、彼女は友を一人、失ったということか。

ふと、足音が聞こえた。それは、希望の予兆か、はたまた絶望の始まりか。静寂の中もやがかった音は、僅かにその大きさを増していた。

 

「十人目は広美ちゃん」

 佐藤広美の声が、九人目までよりもずっと、小さくなった。

「広美ちゃん」

「何ですか?」

「今日は、どうするんだい?」

「どうするって、もう来ちゃってるじゃありませんか。分かってますよね?」

「は、はは、確認だよ、確認。広美ちゃんが分かってるなら、それでいいんだ。ただね?」

「ただ?」

「もっと気持ちよくなれるように、今日は面白い薬を持ってきたんだ」

「薬ですか? そんな、私……」

「いいんだよ。タダだよ、もちろん。普段の広美ちゃん、最中つまらなそうだからね。二人とも楽しめたほうがいいからね。それに、これでもっと気持ちよくなったら、お金は倍上げるよ」

「本当ですか?」

「当たり前さ。ビールの外にワインを頼んだら、お店には倍額払うだろう?」

「全く。私は、物でもお店でもありませんよ?」

「あはは、ごめんね。それに……」

「それに?」

「いや、何でもないよ。さてと、使い方を教えてあげるから、こっちにおいで」

 

 それは、あからさまな転落。悪魔の誘惑。誘惑に負けた者がどうなるか、私は何度も目にしてきた。いいことなんて何もない。待っているのは、崖の底。

 彼女と同化しつつあった私の自意識は、間一髪で切り離される。「私は誰なんだろう?」という陳腐な疑問を捨て去って、私は第三者へと戻って来た。

誰もが同じ悩みを持っている。悩みは、人間の弱い部分だ。ただ、弱さに負けたなんていうのは、言い訳に過ぎない。

後の展開がどうなるか、私は簡単に予想出来た。それでも、私には最後まで見届ける義務があると、そう思った。恐らく、私が最初で最後の、彼女たち全てに出会った人間だからだ。

 

「一人目は佐藤広美」

 それが一人目≠ナも何でもなく、ただ一人の佐藤広美であると、私はすでに知っていた。

 彼女が流れ着いた先がどんなもの場所か、それを告げる。

「欲しいんです。お金はたくさんあるんです。だから下さい」

「欲しいんです。お金はまだたくさんあるんです。だから下さい」

「欲しいんです。お金はまだあります。だから下さい」

「欲しいんです。お金はあります。だから下さい」

「欲しいんです。お金はまだ少しあります。だから下さい」

「欲しいんです。お金は少しあります。だから下さい」

「欲しいんです。お金は少ししかありません。でも、全部上げます。だから下さい」

「欲しいんです。お金はありません。でも欲しいんです。だから下さい」

「欲しいんです。だから下さい」

 

 その先は、とても言葉で書き表せるようなものではなかった。おぞましく、狂おしく、なにより痛ましかった。狂気に満ち溢れて、欲望に忠実。ありふれた、転落者の少女だった。

 こうして、彼女は何も言わなくなった。

 

街中で倒れていたところを救急車で運ばれた。彼女に何があったか知っているのは、私だけだ。詳しい検査は、きっとこれから行われる。ただ、結果を見るまでもなく、更正できるかは彼女次第だ。それは間違いない。檻のついた病室の中で、抜け出す覚悟と決意の強さを手に入れることが果たして――。

 今この瞬間まで、見舞いには、誰も来ることはなかった。母親すら、面会を拒んだらしい。彼女の親友たちも誰も、ここに訪れることはなかった。結局、その親友という言葉は、甘い作り物でしかなかったということか。

 

 私が病室を出るため席を立ったのと同時に、扉が開いた。勢いよく、大きな音を立てて。それでも小さく寝息を立てている佐藤広美は目覚めなかった。

 看護師か、医者かと思ったが、そのどちらでもなかった。見たこともない、佐藤広美と同じくらいの年齢の少女だった。私は名前を訊ねようと声をかけたが、彼女は無視して佐藤広美のベッドに近付いた。どんな理由があれ、佐藤広美は病人だ。無理をさせてはいけない。そもそも面会時間のとうに過ぎた病院にどうやって侵入してきたのか。不法侵入もいいところに違いない。

私はその少女を止めようとしたが、「ヒロ!」という呼び声が響いて、言葉を押し込めた。

 

 ひたすら、少女は佐藤広美に話しかけた。返事はなかったが、語り続けた。昨日のテレビのこと、授業であったこと、部活では佐藤広美を必要としていること、他にも、たくさん。一時間なんてあっという間なほど雪崩れて、少女の叫びは続いた。それを止めるなどという無粋なことをする方法を、私は存じていなかった。

 

少女が帰ろうとしたところで、私は少女に語りかけた。

「お葬式には行かないんじゃなかったんですか?」

 私の言葉に疑問を持ったのだろう。少女は私の手から佐藤広美の記録を奪い取って、隣のベッドに腰をかけた。

「本当の私って、全部あんたんじゃん。知ってるよ」

 ぽつり、と少女は呟いた。直後、少女は謝り始めた。そして涙を、隠すこともなく流しながら。大粒の涙は、シーツに落ちてから染み込むまでに少しだけ時間がかかった。

「あなたは何も悪くはないですよ」

「違う。私が止めてれば……、意地なんか張らなければ、さ」

 私は凄く冷酷なことをした。崩壊した後に、する前を見せつけられたなら、それは心を締め付けるだけなのだ。それでも、私は後悔していない。それが、佐藤広美にとって必要なことだと思ったのだ。

 結局、人は一人では生きていけない。自分の中だけでもそうなのだ。色んな自分を作っている。ただ忘れてはいけないのは、大勢の自分を作っているのは全て、自分であるということ。

 それに、自分の中に何人いても結局、それだけでは足りないのだ。

「また来ます。ありがとうございました」

「次はちゃんとした時間に、ちゃんとした方法で来てくださいね」

 散々泣きじゃくって、少女は病室を後にした。

 これで、佐藤広美と過ごした一夜の話を終わりにする。

 揺らめいていた佐藤広美の影は、いつの間にか静かな眠りについていた。

 雲の隙間から、少しだけ月が顔を出している。私は、白く輝いた毛布を掛け直してあげた。